受験票の導きー

ドキドキが止まらない胸を、両手でそっと押さえて瞳を閉じる。
深呼吸——
もう一回、深呼吸——
「……」
緊張はぜんぜん解けない。でも、覚悟はついた……かな?
ダ、ダメダメ。『かな?』とかじゃなくて、覚悟を決めよう!
「……えいっ!」
ぱちっと、勢いをつけてまぶたを開いた。
目の前にはたくさんの人の運命が記されている掲示板。もちろん、わたしの運命もそこにある。
どうか、ありますように——
神様にお願いしながら、掲示板の合格番号を追いはじめる。
左隅から右側へ視線を動かしていく。
目に入る番号が、だんだんわたしの受験番号に近づいていく。
どんどん、胸の鼓動が速くなっていく。
そして——
「……あっ!?」
見覚えのある数字が瞳に飛び込んだ。
あった……?
いや、でも、記憶違いかもしれないし!
慌てて受験票の番号と照らし合わせる。
……すべての桁が……一致した!!
「……よ、よかったぁ」
瞬間、ガチガチにこわばっていた身体から、すーっと力が抜けていく。
よかった……ホント、よかったよぉ……

思わず、その場でへたり込みそうになる。
合格したら万歳して喜ぶつもりだったのに……立ってるだけで精一杯だよぉ。
なんて言うか、うれしさよりもなによりも……うん、ホッとした。
ただただ、ホッとしちゃった。
「はあぁぁ……」
自然と、大きな息が漏れた。
でも、なんだか落ち着いてきたような気がする。
あれだけバクバクしていた心臓も、平常運転に戻りつつある。
そしてようやく、合格したっていう事実を噛みしめられるようになってきた。
……よかった、わたし、朝岡学園に合格したんだ。
これで、春からはきっと一緒に——
「きゃっ!?」
ぴゅうっと強い風が吹いた。
とっさにスカートを押さえる。
だ、大丈夫……かな? 見られて、ない?
「……ん?」
左右を確認していると、風に乗って飛んできたなにかがわたしの足下に落ちた。
「……受験票?」
拾い上げた後、なんとなく目に入ったのは受験番号。
わたしと、番号が近い…… 反射的に顔を上げて、わたしの番号があった付近を見回してみる。
「……あった」
この人、受かってる。
なんだか、ちょっとうれしい。

でも、自分の時より、人の合格を知ったときにうれしくなるなんて不思議。
しかも、誰かわからない人なのに……
今更ながら、受験票の名前を確認する。
「……うそっ!?」
ドクンと強く鼓動した後、心臓は再び早鐘を打ちはじめた。
でも、だって……こんな……まさか……
そこにあった名前は——
「三谷……陸斗……」
わたしの……お兄ちゃんになる人の名前だった。


わたしの人生、お母さんの人生―

「お母さん、あけましておめでとう」
「はーい、あけましておめでとう、歩夢」
おせちを挟んで、お母さんとグラスを合わせて乾杯する。
十年以上、我が家はわたしとお母さん、ふたりだけのお正月。
「今年もよろしくね、お母さん」
「こちらこそよろしく頼むわね。歩夢がいなかったら、生きていけないし」
「あはは。たしかに、わたしがいないと家事する人がいなくなるしね」
「ホントに助かってるわ。今年は受験だってのに、ごめんね」
「大丈夫。都立は安全圏だって、先生に言われてるから」
「都立……? 第一志望は朝岡じゃなかったっけ?」
「うん、そうなんだけど……無理して行かなくてもいいかなぁ……なんて」
「どうして? 学力は足りてるんでしょ?」
「まあ……一応……」

「だったら……あ、もしかして通学距離を気にしてる?」
「……」
お母さんの言うとおり、ここから朝岡に通うとなると片道一時間以上はかかる。
その分、家にいる時間が減るので、今より家事はできなくなる。
そうなると、お母さんの生活にも支障がでてくるわけで……
「では、そんな歩夢にニュース速報!」
「えっ?」
「てろりろりーん♪ てろりろりーん♪ このたび角田良子さんの、十三年ぶり二回目の結婚が決まりました」
「はっ!?」
「このたび角田良子さんの、十三年ぶり二回目の結婚が決まりましたっ!」
「ええええええええええっ!? け、結婚!?」
「うん」
「……うん……って……そんな……」
無邪気な顔で……
そんな大事なことを……
こんな高校野球の出場校決定を知らせるニュース速報みたいなノリで……
「……」
それが……お母さんだ。
お母さんのノリだ。
「……賛成、してくれる?」
「え、ええと……賛成、というか……なんと、いうか……」
「反対、なの?」
「い、いや、あの、そういうわけじゃなくて……ただ、いきなりで、ビックリしたというか……あの……」
「歩夢は……反対なんだ……」

「えっ?」
「歩夢はぁ……反対なんだ……ぐすっ」
「ちょ、ちょっとお母さん!! は、反対じゃないから、そうじゃないから!!」
「……じゃあ、賛成?」
「う、ううぅーん……」
「やっぱり反対なんだあぁぁ……うあああああああん」
「あ、いやっ……おか、ちょ……」
「うあああああああん、歩夢に反対されたあああああぁん」
「……お母さんっ!!」
「はうっ!?」
ダンっと、テーブルを叩いてお母さんの暴走を止めた。
普段ならこうやってお母さんがなし崩し的にわたしの賛同を得る場面なんだけど、さすがに今回はダメ。
だって……
「結婚みたいな大事なことっ!! いいか悪いかなんて、すぐに言えるはずないじゃない!」
「……やっぱり、ダメなの?」
「だ、だから、そうじゃなくて。お母さんの相手がどんな人かもわからないのに、賛成も反対もないでしょ!!」
「うーん……まあ、歩夢の言い分も一理あるわねぇ」
「一理以上、あると思うんだけど……」
「……わかったわ。あなたの未来のお父さんのこと、いろいろ教えてあげる」
「……お願いします」

それから、三時間——

「でねっ、でねっ、直たんがね、そのときねっ!」
三谷直真さんこと直たんの話は、終わる気配がないみたい……
「あの……お母さん……」
「なに? 歩夢」
「あと、どのくらい……話は続くの?」
「そうねぇ……今、激動編のクライマックス前だからぁ……」
「……わ、わかりました……もう、いいです」
「どうしてっ? これからおもしろくなるのよっ!? それにまだ完結編だって控えてるのに!」
「ほ、ほら、一度に聞くのもったいないかな……なんて」
「……そぉ?」
「う、うん……それにもうお母さんがその直た……じゃなくて、三谷直真さんのこと、どれだけ好きかはわかったし」
「……じゃあ……歩夢……?」
「……うん。おめでとうお母さん。好きな人と結ばれて良かったね」
「歩夢……ありがとっ!!」
「きゃっ!?」
テーブル越しにぎゅっと抱きしめられた。
わたしも、そっとお母さんを抱き返す。
「……」
突然の話だから心の整理はまだちゃんとついてないけれど、お母さんの結婚を素直に祝福したい。
お母さんにはお母さんの人生があって、幸せになる権利があるんだから。
「で、歩夢」
「……なに?」
「話を元に戻すけど」
「元の話……って、なんだっけ?」

「だから、志望校の話よ」
「あ……あああ、そういえばそんな話もしてたっけ……」
もうかれこれ3時間以上、ずーっと直たん物語だったのですっかり忘れてた。
「でね、再婚すると当然引っ越すことになるんだけど」
「引っ越し……」
と、なると、今の中学の友達とは離ればなれになってしまうのか……
ちょっと寂しいけど……それは仕方がないよね……
「……引っ越しはイヤ?」
「あ、そんなことないよ。それで、引っ越し先は決まってるの?」
「いなせよ。直たんのお店がそこにあるからね」
「いなせ……って、どの辺だっけ?」
聞いたことある地名だけど、場所のイメージは全然湧いてこない。
「えーと、ほら、露田川の向こう……そう、深城区!」
「深城区……ちいちゃんが住んでるところ?」
「そうそう。千里ちゃんが住んでるところ」
「そっかぁ……あの辺かぁ」
なんとなく、場所のイメージができた。
決して近くはないけれど、その気になれば今の友達と会えないこともないはず……
「あっ!?」
「どうしたの? 大きな声出して」
「……もしかして、いなせって朝岡学園が近い?」
「うふふ、気づいたみたいね」
「じゃ、じゃあ……」
「通学時間は、ここから通う時間の半分程度みたいよ」
「半分っ!!」

だったらもう、朝岡を敬遠する理由はひとつもない。
「あ、あの、お母さんっ!」
「ふふふ、わかったわ。都立じゃなくて、朝岡学園が第一志望でいいのね?」
「うん!」
「よかったわ。できるなら兄妹そろって、同じ学校に行ってほしかったから」
「……えっ? きょ、きょうだい?」
「そう、兄妹よ!」
それからお母さんは、再婚相手にも子供がいることを教えてくれた。
同い年で、わたしと同じように、朝岡学園が第一志望。
その人が——


再び、受験発表の日―

「三谷、陸斗……」
確かめるように、受験票に刻まれた氏名をもう一度口にした。
やっぱり……わたしの……お兄ちゃん……
そのお兄ちゃんも、合格していた。
つまり、春からわたしは、この人と一緒に朝岡学園へ通うことになるわけで……
「っ……」
ドクンドクンと、痛いほど胸が高鳴る。
まさか、こんなところで顔を合わせることになるかもしれないなんて……
だけど実は……お兄ちゃんの顔を知らなかったりする。

お母さんが、『会うまで秘密っ! てへっ!』とか言って、写真すら見せてくれないんだもん……
もっとも、お母さんの話によるとこの三谷陸斗さんは、まだお父さんが再婚することすら知らされていないらしい。
「……ん?」
と、いうことは、もしここで会ったとして……
『お兄ちゃん、はじめまして! うふふっ!』
なんて言っても、まったく話が通じないってことよね。
ううん、通じないどころか完璧に危ない子って思われちゃう。
……だったら、今は会わない方がいいのかもしれない。
ただ、このお兄ちゃんの受験票……どうしよう……
持って帰るわけにはいかないし、かといって適当に手放すわけにも……
判断に困っておろおろとあたりを見回したとき——
「……!?」
ひとりの男の子と、目が逢った。
そのまま、視線が外せなくなる。
いつもなら、男の子と目が逢ったら、恥ずかしくなってすぐ逸らすのに……
どうして、わたしは……この人を……
「あ……」
そっか、この人が三谷陸斗さん……わたしのお兄ちゃんになる人だ。
根拠はないけど、そう思った。
確信……した。
「あの……僕に、なにか?」
「えっ? あ、と……」
声をかけられて、我に返った。
急に恥ずかしくなって、視線を逸らしてしまう。
……って、ダメ! ちゃんと受験票を返さないと!

勇気を出して、視線を戻す。
「……あ、あの、もしかして、受験票をお探しですか?」
「あっ、はい。さっき風に飛ばされちゃって……」
「やっぱりっ!!」
「えっ?」
「い、いえ……ご、ごめんなさい」
根拠のない確信が、真実へ変わっていく興奮。
はやる気持ちを抑えられないまま、わたしは決定的な質問をする。
「ええと……三谷、陸斗さん、ですか?」
「あ、はい、そうです。三谷陸斗です」
「……」
うれしくなった。
どうしてかわからないけど、この人がお兄ちゃんだとわかって、すごくうれしくなった。
そして、胸いっぱいの暖かい気持ちに導かれ——
「合格、おめでとうございます……ふふふっ」
お兄ちゃんが朝岡学園に合格していることを知らせた。

——満面の笑みを浮かべて。